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こころが無いということ④

 もうひとつ、確認しておきたい大事なポイントがあります。
 一般的な座禅、瞑想では、最初に肉体感覚が消えてふんわりと鎮まり、感情が鎮まり穏やかになってきます。何かについていつでも考え込んでいる、そんな思考も停止。
 そうして、内側から訪れる歓びと幸福感!!

 ちょっと、待って?! 「こころが無いということ②」で、感情とは瞬間的、感覚的に緊張や興奮、快不快を判断し表現する作用のことだと解説しました。なら、瞑想中の歓びや幸福感、それは感情ではないっていうことになってしまいます。感覚的対象はもちろん、過去の感情の想起もない…何について想いでもないのだから。
 それでは、感情でない感情ってどういうものなのでしょう……。

1立川コスモス

 未だ十代の私は、未だ足りないと思いました。この思考ゲームには未だ先が在る。私は辿りつけるいちばん遠くまで行きたい。遥か向こうの道の果て…それが何であるのか知らないとしても。
 高校の部活は引退、姉は別の街でアパート暮らし。念願の個室で、一人の時間をたっぷりもてるようになった頃でした。受験勉強をする気にもならず(受験のためだけの勉強ってナニ?)。それでも、往ってしまいそうな子供の時間に、急きたてられるように。
 身体の成長はしょうがない。けれど、内なる魂の純粋さ、子供のままの無垢な心を一滴たりとも失くしたくなんかない。そのためには、どんな努力だってしよう。

 真理! 私はそれを、どれほど愛したことでしょう。今度は何か、ではなく自分の心そのもの、本当のわたしを探す思考ゲームの開始です。

 独りじっと何もしないでいると、気になっていることが次から次へと心に浮かんで来ます。繰り返しぐるぐると。私の自己流のやり方は、例えばこんな感じです。

 同級生や先生の言葉…失敗…後悔…私は何故、辛かったのだろう。その考えは、どこからやってきたのだろう。何故、そんな考えが生まれたのでしょう。
 体の疲れや不調が原因の不機嫌なら、肉体感覚をOFF。恨みや妬みや怒り…負の感情は歪んだ欲求の現れだから、歪む前の欲求を探し出して、感情の方はOFF。
 私が欲しかったもの。ヒトに愛されたいとか、褒められたいとか…プライド!? プライドは弱いエゴの鎧に過ぎません。何故、それが無いと自分に存在意義がないなんて思っていたのやら。
 そう気付いたら、それを考えていた心の領域をOFF。

 ホントのわたしは何処に?

 「わたし」が現れる場所への道は、糸のように細かったり一瞬後に消えたり。それでも、わたしだけを見つめ続け、追いかけ続けるのです。その繰り返し。絶望するほど、棄てるべきものを棄てるほどに、はっきりと見え始める不動のわたし…楽しい思考ゲームでした。

 深い瞑想の境地、サマディーでは脳波が停止し、仮死に近い状態になると云われています。臨死体験のようなものであるとも。
 インド哲学では、ベールを剥ぐとか、自我を破壊するとか様々な言葉で語られていますが、多分同じのことを指しているのでしょう。自分の意思で、自分の脳…心の機能を極限までOFFにしていく作業です。
 エゴを棄てることは大切な目標ですが、自分という意識の方は、最後の最後までクリアに保つ必要があります。そうでなければ、瞑想ではなく只の夢になってしまうから。
 そのようにして、自分という意識感覚以外の、余分なところを徹底的にOFF。実際の肉体で、呼吸は虫の息ほど、心拍も最低限、脳幹反射も極限までOFFになっているはずです。
 不思議なことに、息をぐっと止めるのではなく、呼吸中枢の方から止めると苦しくありません。心臓を停止させた場合も同様です。心筋梗塞は苦しいのに?
 わたしがやってくるところを徹底的に追いかけて、余分なところを徹底的にOFFしたら、確かに脳は仮死状態まで行きついてしまうのかもしれません。

 脳内の喜怒哀楽の感情を司る回路はお休み中です。瞑想のベテランが瞑想中に深い歓びを味わうことは事実なのに、歓びの感情の回路は完全に停止中なのです。
 感情でない感情。それは一体何なのか?

 コンピュータなら、すべての操作プログラムをOFFしたときだけ現れ、アクセス可能になる基本ソフトのようなものでしょうか。科学的には、死の恐怖と苦しみを忘れるために備わっているヒトの潜在プログラム、という仮説が有力なようです。臨死の際に分泌される脳内物質による幻覚?
 しかし、臨死体験の話には、それだけでは説明しきれない情報があるハズです。サマディー体験のそれは語り尽くせないほど。そこに、始原の歓びの源があるのだとしたら…。

 インド哲学ではそれをヒトの本性と呼びます。人間は元々、幸福であるのだと。

 私は、存在自体の歓びと名付けたい。感情の鞘や場を持たない感情らしきもの。中枢神経を持たない木々も花々も、梢を濡らす雨と光と風の中で歓びに震える。そんな風に。降るような星の夜、月の夜、世界の目覚め。そんな風な歓びが、私達自身の内側に元々あるのだと。
 神の愛、祝福や歓びと呼ばれているものもすべて、ヒトが知っている愛のことではないということを。

 神サマ? 
 私の自己流瞑想法に、神様は未だ登場しません。それはまた別の話になります。

 私はやがて、この思考ゲームの終着点を見つけました。どんなに意識を保とうとしても気を付けて精一杯に集中しても、ここから先は完全な無意識という場所。巨大な宇宙の波が寄せる、渚のような場所。
 そこから、すべての想いが現れては消えていくのです。泡のよう?滴のよう?波のように寄せては返すところ。

 私は自分という意識が最初に生まれるそこを、自分自身のエゴ、アイデンティティの居場所に決めました。

立川コスモス2
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テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

Comment

なるほど、「渚」ですかぁ!
いいお言葉ですねぇ~
僕は、ここを、心が現れ、そして、消えていく「渚」と感じます。
ここに集中し続けると、それ以外のこと・ものが少しずつ希薄になってきて、ここだけになる。
粗雑な身体が消えかかる感覚がなくなったとき、ここだけになっている。
ただ、ここを「無意識」とは感じないんですよぉ。
「ある」っていうのか、なんと言えば良いのか、「ない」ではないんです。
思考は「ない」のですが、「感じる」だけになっていて、なにかを感じ続けているだけになっているんです。
ここから先があるのかないのか、よくわかりませんが、最近、この感覚が、少しずつ拡大していくのを感じます。
マハルシが、瞬きせず、源に没入したままになっている動画を見たとき、最初、何も感じませんでした。
以前、有名なインドの聖者とマハルシが一緒に映っている動画を見ましたが、その聖者は、困っているような感じに見えました。
マハルシは、どこにいても、何をしていても、真我に没入できる。
でも、それを感じ取るためには、渚に居続けられるようにならないといけないのかなぁ?って。
もっと、頑張らないといけませんね。
(*^_^*)

無意識

コメントありがとうございます。
高校時代の古いお話で恥ずかしいです。私は瞑想の用語を知らなかったから、「無意識」という言葉でかる~く捉えていたのです。ちょっと気の利いた人なら、それぐらいの体験してるんだろうなっていう程度に。

この種の境目がしっかりあるのは事実のようで、ラーマクリシュナさんは、「海のそばに居て、訪れたヒトに水を汲んでもてなしいる」といっていたような…。静寂と平安を分け与えられるラマナも、水を与えられる方に間違いまりません。
それには程遠い私も「渚の湿度」くらいは伝えられたら、幸いです。
Secret

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まとめ【こころが無いというこ】

 もうひとつ、確認しておきたい大事なポイントがあります。 一般的な座禅、瞑想では、最初に肉体感覚が

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Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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