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こころが無いということ②

 心、感情が無いヒトは、泣いたり笑ったりしないのでしょうか。何処が変わったのか、変わってないのか。それとも、最初から勘違い?
 
 そもそも、感情とは何でしょう。


金木犀二度咲き2
今年の金木犀は二度咲き。二度目の方が花が多いのは珍しいって!幸福な物語を思い起こさせる香りです。

 感情は喜怒哀楽。喜怒哀楽とは?――日本語の「感情」という言葉の意味は曖昧です。英語で感情を表す言葉には、feelig(感覚)、emotion(情動)、affection(情感)、mood(気分)、passion(情熱)、sentiment(情操)とたくさんあるのに。それらの状態が何処からやってくるのか、どういうものなのか、心理学、生理学的等、見解はさまざま。いつでも傍にあって誰でも知っているようだけど、よく分かっていない…感情ってそんなものの代表格みたいです。
 この場合、私の云う「感情」に近いのはfeeling(感覚)とemotion(情動)あたりでしょう。瞬間的、感覚的に緊張や興奮、快不快を判断し表現する作用のことです。

 初対面の相手、初めての風景や音楽などの印象を、ヒトは一瞬で好きor嫌いと決めてしまう。そして、その印象は長時間経ってもほとんど変わらないと云われています。
 快:不快、安全:危険を瞬時に見極めて、即、喜怒哀楽に分類しているもの。つまり感情とは、感覚的・直観的判断の結果です。原因ではありません。その素早い反応は、本能的な危険回避の能力なのでしょう。
 しかし、最初に好きか嫌いか決めちゃったら、それで終わり。結果が先にあって理由は後付け。そのために勘違いや思い込みだらけでも、それを分析して訂正するのは困難なのが、感情といえます。「ヒトは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という説は有名でしょう。

 また、強い憎しみや悲しみの感情が、肉体的緊張・興奮を持続させ身体と心を痛めることは、生理学的事実です。自分を傷つけた相手でもモノでもなく、自分自身の側の身体と心を、繰り返し繰り返し…。
 一方、喜びや笑いは良いことのように見えます。でも、「お笑いのネタ」って普通、苛めのような誰かの不幸では? 苦しみや悲しみとセットになっていない歓びは、世間では稀。悲しみの中に歓びを、歓びの中に悲しみを探してしまうのもまた、ヒトの本性と言えるでしょう。

 いずれにしても、喜びと悲しみのどちらかだけ、なんていう人生を選ぶことが出来ません。「心は破壊すべきもの」という見解の是非はともかく、混乱と不幸の落とし穴だらけであることには間違いありません。そのように、私達自身の内側から生まれ、私達自身を混乱させ痛めつけるこころ・感情を、13の私は苦しみの原因と見なしたのでした。

 それでは、もう一度本題! 瞑想中の、感情OFF状態がずっと続くなどということが本当に在るのでしょうか。あるとしたら、感情OFFの人間は、泣いたり笑ったり等の反応を、全くしないのでしょうか。

 答えはNO!ヒトは、見たり聞いたり、感じたりして周りの状況を確かめずには、身動きひとつできません。当たり前の日常生活をおくるうえで、肉体感覚は必要不可欠。判断すべき感覚の対象があるのなら、反応の結果としての感情もまたある、ということができます。無くすことは不可能です。
 それでは、インド哲学で云う心の破壊なんて、嘘??

 ずっとサマディーの状態にあったと云われるラマナ・マハルシ。
 ラマナ・マハルシに実際に逢った彫刻家は、「すごく自然で、人間そのものって感じだった」と語っていました。残された映像に、動物を前にして子供のような笑顔を浮かべる聖者が映っています。弟子たちは澄まし顔の写真の方がお気に入りですが。
 ラーマ・クリシュナさんも、伝記の中には子供のように泣いたり笑ったり怒ったりする様子が描かれています。

(あれ、なんで自分のグルのラマナ・マハルシは呼び捨てでラーマ・クリシュナはさん付け?何で恥ずかしいのかしら…。 
 グルに心で語りかけるのは、内なる自己と語るようなもの。そもそもラマナ・マハルシは自他の区別がない方だから、私にとっても内なる自己と区別不能? ごめんなさい。そうやって、私はいつも「彼」とおしゃべり)。


 無くなるのは、原因と結果を取り違えるような、反応の混乱です。本当の自分、真我から湧きあがってくる感覚や印象は、純粋で透明で歪み無し。自分自身を取り巻く風や空気、ヒトやモノに向き合った瞬間、まっすぐに立ちあがり、さっと速やかに消えます。子供のように。過去の印象を引き摺って、自分自身や他人を責めたり傷つけたり、なんていう混乱がありません。それが、「聖者=人間そのものの自然体」の意味に違いないと私は思っています。

 「感情の鞘」と呼ばれる、ヒトを混乱させる感情の場のようなものは、多分実際にあるのでしょう。脳内に?霊的磁場として?…脳内の思考パターンは電磁的に実在するとも云えるので、この二つは完全に別々ではありません。インド哲学で云う「感情の鞘が破壊されている・心が死んだ」とは、そのような偏見や思い込みによる束縛から、精神が解放されるという意味なのでしょう。
 「泣いているから悲しいのではなく、悲しいから泣いている」と断言しちゃえる。それがきっと、解放されたヒトのこころです。

 それにしても、感情、心についていくら解説・分析しても、心が無いことを完全に証明できません。そういう状態が在り得るという、可能性を示すことが出来るだけ。今、特定の「誰か」に心「感情の鞘」があるのかどうかの証明には、程遠くてがっかりです。

 けれど、身体の病にも、誰でも罹る病気から百万に一つの奇病まであるように、心の在りようにも信じがたいほど珍しい状態、というのがあってもおかしくありますせん。70億分の何人なのかは不明だけれど。
 百万という数字?! ラーマ・クリシュナさんは、「精神修行を志す者の中で真の信仰を持つ修行者千に一人、解脱する者はさらにその千人に一人」とおっしゃってたっけ。千×千=百万!!百万人に一人の常識が、普通人の非常識なのは、間違いなさそうです。

 どこまで続く?
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テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

Comment

こんにちは。

WHO-kuさん。
こんにちは、はじめまして。
私もラマナ・マハルシが大好きで今日いろいろ検索していたらたまたまこちらのブログに出会いました。
今年の8月にはとうとうラマナ・アシュラムに一人で行って参りました。
ほんの5日間ほどの滞在でしたが・・・
いろんな不思議なことがあり濃厚な旅でした。
改めて感じたのはラマナのエッセンは時空を超えているということです。
言い方を変えるとどこにでも、いつまでも、ある、ということです。
だから ラマナアシュラムに行っても行かなくてもそれは変わらない、ということ。
その事は、ラマナが何回も言ってくれていたのに私は好奇心も伴って行ってしまいましたが。。。
しっかしラマナアシュラムを訪れているインドの方々は皆様本当に真剣でしたよ!
ここに来ている方々が求めているものは、決して言葉に表せないなにか、であると強く感じました。

長々とすみません。
WHO-kuさんのブログは読ませて頂いているとなんだかとても温かいものの流れを感じたので嬉しくなりました。

これからも思いのままに文を綴っていって下さい(^^)
また読ませて頂きます。
ありがとうございました。

Re: こんにちは。

ミルさん、ブログの訪問とラマナ・アシラムの訪問、ありがとうございます。

呼ばれなければ行けない場所と云われていますので、本当に素晴らしいことだと思います。
一人ひとり、各々の流儀でラマナと繋がるのがイイと勝手に思っていても、ちょっぴり不安。時々、分かりにくかったりズレてたりしたら、教えて下さい。

今年のディーパム祭は、My Birthday こちらも勝手に喜んでます。
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まとめ【こころが無いというこ】

 心、感情が無いヒトは、泣いたり笑ったりしないのでしょうか。何処が変わったのか、変わってないのか。

プロフィール

Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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