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超改訂版――歴史をさかのぼって

20161219朝霧1

20161219朝霧2

 先祖が頑張っていたお話って、リアルな歴史っていう感じでワクワクします。東北地方には古い時代の歴史的資料が乏しいし、「歴史書に書かれていることだけが歴史ではない」のだけれど、それでも。
 
 秋田市郊外に、現在、重要文化財となっている古民家があります。江戸時代に肝煎で郷士だった豪農の邸宅、三浦館です。肝煎って、庄屋のことですね。
 それは、私の母方の祖父母の住んでいた家のすぐそば。修繕前はボロボロで、小さい頃はよくもぐりこんで遊び場にしていたっけ。私の先祖と断定できる、いちばん古い記録は、この豪農の歴史の中にありました。

 資料によると、その先祖は桓武平氏。鎌倉時代に相模の国、現在の神奈川県辺りを治めていた三浦氏の末裔と伝えられています。
 うーん、この手の出自説明は、武家の決まり文句。信憑性は不明です。厳密にいうと、姓とは天皇家から下されるもので、名字は自主的に名乗るもの。武士は、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の4つの姓のどれかを持っていることになっています。実際にそういう先祖が居なくても。例えば、豊臣秀吉が平氏、徳川家康が源氏を名乗っているのは、嘘ってわけで…。
 それにしても、昔の人は様々な事情で名字を変えてしまうようです。分家したため、あるいは落ち武者となったため。それが、私たちのルーツ探しをブロックしています。(父方の先祖は、明治以前に遡れず断念)。

 相模の三浦氏が桓武平氏起源であるのは、とりあえず史実。その三浦氏が全国へ散っていったきっかけは、和田合戦であったとされています。
 和田合戦が起こったのは、鎌倉初期1213年のこと。原因は、源頼朝亡き後、北条義時と和田義盛の勢力争いでした。この和田義盛が、三浦一族のひとりだったそうです。
 戦いの結果、北条義時が勝利して執権政治を確立したのは、歴史に記されている通り。和田氏は滅亡。三浦一族は、北条氏に寝返った三浦義村を除き、日本各地へ落ち延びることとなりました。その中の一部が、甲斐の国、現在の山梨を経由して、出羽の国、秋田へやって来たようです。
 言い伝えによると、いちばん最初に出羽に来たのは、三浦平太秀憲(ひでのり)。年代などの詳細は不明ですが、その三代後に出羽の国司大名、安東家(安藤?)の家臣として、八郎潟周辺を領地とする浦城の城主を任されていた三浦兵庫守盛永(ひょうごのかみもりなが)のことは、はっきりと記録に残されています。
 八郎潟は昭和の時代に干拓されるまでは、琵琶湖に次ぐ日本第二の広大な湖でした。その湖畔に建つ山城は水に映え、美しかったことでしょう。今は、風と伝説だけが残されています。

 安東家といえば、安倍貞任の子孫(某首相も?)で、後に秋田姓を名乗るようになった、まさに秋田の始祖といえる戦国大名。こちらも、私のご先祖様である可能性は高いのですが、その栄光の歴史は「東日流外三郡誌」などのアヤシイ資料が多いので、取り合えず割愛かな。
 東北地方北部の古代、中世の歴史は、悲しいくらい詳細不明です。坂上田村麻呂のエミシ討伐(討伐された?)の後も、中央の支配があまり及んでいなかったのでしょう。

 三浦家のお話に戻しましょう。この浦城の落城は、湊合戦にまつわる悲劇として語り伝えられてます。以下、「浦城の歴史を伝える会」の資料を中心に進めます。

 湊合戦は、安東家の相続争いが、発端となった戦いでした。それが正確にいつの頃だったのか、資料によりまちまちですが、戦国時代の終わり頃と思われます。
 安東家では、当主亡き後、嫡子が幼かったため、当主の弟、安東城之助愛季(じょうのすけちかすえ)が家督を継ぎました。そして、成人した若殿と叔父甥の間で、正当な後継を争い、戦が勃発。ありがちな話ですね。

 三浦家当主の兵庫守盛永(盛長?)は、武勇に優れた豪の者であったそうです。その妻の名前は花御前とか、松前藩から嫁いだ小柳姫であるとか、どちらの説もあって、不明です。
 盛永は、安東家の若殿、湊安東家に味方して戦い、激しい戦闘の末に敗れました。盛永は城の上流にある叢雲の滝(むらくものたき)の上で自刃したと伝えられています。浦城は落城。身ごもっていた妻も、落ち延びる途中で亡くなりました。

 盛永の遺児、2歳の千代若は、生きて山形の酒田(新潟という説も)へと落ち延びたそうです。元服以後は、三浦五郎盛季(盛末?もりすえ)と名乗りました。その後、湊合戦の勝者、城之助愛季の許しを得て、浦城の近く一日市(ひといち)に押切城という平城を建てました。
 何故、謀反人の子がすんなり許されたのか、城主にまでなれたのか、詳しい記録はありません。三浦家には甲斐や松前に有力な親族が多いので、何らかのとりなしがあったのかもしれません。
 私の祖父の直系のご先祖様、○○兵之介兼次は、重臣のひとりとして若き城主に仕えていたと記されています。

 三浦五郎盛季は、父親譲りの武勇の者だったとか。少なくとも、安東家の役に立つ人材として、将来性を期待されていたことに間違いありません。姫も輿入れし(こっちが小柳姫?)、嫡子の亀若、さらに姫君も誕生。前途洋々でした。しかし、さらなる悲劇が、この一族を襲います。

 重臣のひとり小和田甲斐守が、安東愛季へ密告しました。「盛季は、許された身の上にありながら、安東家への謀反を企てている」と。
 これは、自分の待遇に不満をもっていたための、讒言であったと伝えられています。愛季からの相談事があると聞いて、特別の備えも無しに出かけた盛季は、小和田甲斐守の軍勢に惨殺されました。当時18歳と書かれた資料は間違いとしても若かったことは確かです。(名前や年齢の記載の混乱は、盛季と亀若が親子という説と、兄弟という説の二通りがあるためのようです)。

 「秋田軍記」には、盛季の最期が次のように記されています。
 同行していた兵之介兼次を傍に呼び、「一刻も早くこの変事を押切城へ伝えよ。一族郎党のみを大切にして、山野に隠れて時節を待て。吾、この地に死すとも、三浦の血統を絶やしてならず。吾の仇と思っての謀反ならず」と言い残したと。押切城へ駆け戻った兵之介は、涙ながらにこの命令を伝えたと。盛季の妻子は、兵之介に守られ落ち延びていったのだと。

 年代不詳の伝承の中で、この湊合戦最後の戦いだけは公式の記録がありました。秀吉の惣無事令「大名の私闘を禁じるお触れ」に違反したとのお咎めを受けたからです。伊達政宗が「勝手に隣国を攻めた」と秀吉のお咎めを受けたエピソードは、有名です。ということは1590年頃、今から430年ほど昔のことでしょう。

 盛季を討った小和田甲斐守は、押切城の城主に収まりました。しかし、盛季が怨霊となって幾度となく祟ったため狂死し、城も滅びたと、伝えられています。
 この種の伝説が史実かどうかは不明。しかし、超常現象や悪霊の祟りの是非はともかく、それなりの事件があったのでしょう。三浦盛永と盛季父子の霊を清源寺に祀り、怒りを鎮めたという記録が残されています。(盛季、神サマに昇格?)
 盛季の妻は、すぐに病を得て亡くなりました。残された亀若を成人するまで後見したのが、○○兵之介兼次です。落人狩りを避けて、街道から外れた黒川へ入植。幼い兄弟は山奥の昌東院(寺)に預けられました。そして、開墾を行った後、亀若、後の三浦盛宗を安住の地、黒川へ迎い入れたとされています。

 お祖父ちゃんお祖母ちゃん、ド田舎に住んでるお百姓かなって思っていたけれど、落人部落だったわけですね。「浦城の歴史を伝える会」の資料には、忠臣の誉、○○兵之介と記されています。

 ところで、○○は安東や佐藤のような、東北地方起源の名字ではありません。元々名のある武家であったのなら、三浦家が甲斐の国から出羽へ来たときに、共に従って来た家臣でしょうか。
 ここから先は、記録が無いので推測のお話になります。戦国時代には、様々な大名が興亡を繰り返しており、滅んだ一族の末裔の多くが他国で別の大名に仕えました。播磨の国の守護大名であった赤松氏の支族に○○という姓があること、赤松氏の衰退で関東へ落ち延びた者が居たことが分かっています。三浦家の先祖と○○家の先祖は、甲斐の国で出会って主従関係を結んだ可能性があります。(調査中)

 江戸時代に入ると、三浦家は肝煎の郷士となって、家名を存続させました。庄屋の出自が戦国大名の家臣、という例は多いそうです。
 一方、ただの百姓となった○○家は、「兵助」の名を長男が代々継いで屋号としました。曖昧な資料が多い中で、この部分は事実です。なので○○兵之介、間違いなくご先祖様なのです。もっとも祖父の代に、ヒョースケなんてカッコ悪いから、やめちゃったそうですが。

 県立博物館の展示資料に、明治時代の長者番付がありました。重要文化財となった三浦館の三浦家は、秋田県2位の大地主。アレ、落人部落のつつましいイメージと違う? 兵之介、かなり大規模な開墾を、元家臣団を指揮して行ったのかな。米どころ秋田、この国、この世界の基盤作りに頑張ったご先祖様のひとりだったのでしょう。
 ちなみに、9代前、7代前、最近では4代前に、この三浦家から祖父の家へお嫁に来ている方が居ます。つまり、三浦家のご先祖様のお話、実は私のご先祖様のお話でもあった訳です。
「そのお祖母ちゃん、太っていたってな」
「ンだ!」
いや、そういうDNAはともかく…。(*ノェノ

 秋田市内とはいえ、街道筋からはずれている黒川には、今もコンビニ一軒ありません。祖父母の暮らした古い茅葺き屋根の家の方は、とっくの昔に建て替えられました。けれど、私は覚えています。囲炉裏、土間、井戸。春には山菜を、秋にはキノコと栗、柿を摘んで、馬を飼い、鳥を飼い、身の回りのものを手造りする暮らし。
 また、黒川の地名には、石油の流れる川という意味があります。大規模な油田採掘を試みた曽祖父の夢は破れましたが、小さな油井は今も残されています。跡さえ消えた、小さなトロッコ列車。それもまた、秋田の原風景でしょう。
 父が母との結婚の正式な挨拶に訪れたときは、未だバスが無くて、追分駅から3時間歩いたそうです。その数年後に開通したバスは、過疎で再び廃線となってしまいました。夏休み、冬休みに姉母と一緒にそのバスで里帰りの度に、いつも「よく来た、よく来た」と迎えてくれた祖父母も、とうにいません。

 落人達の物語。遠い昔の出来事のようですが、言い換えれば、政治難民、経済難民、移民です。まさに今も在る問題でしょう。エミシが最後まで抵抗を続けた東北は、難民が最後に辿り着く安住の大地なのかもしれません。
 私達が、生きて来た歴史。伝えていくべきもの。産業革命以前のヨーロッパ人も、江戸時代までの日本人も、90%はお百姓でした。縄文以来の、数千年以上受け継がれてきた人間としての普遍的な生き方が、そこにあるような気がします。
 
 私達は今、意識するしないにかかわらず、先祖の生きようとしたその先を生きているのです。

20170107セリオン

 ところで、私は、自分自身に直接かかわる歴史を調べてみて、妙な後味の悪さを感じました。
 縄文晩期の遺跡が多く残る東北の北部は、縄文文化と血統が濃く残っている地域です。今の私たちが大陸の人々と違うところ、優れていると事があるとしたら、それは多分、縄文由来。なのに、その部分が、ちっとも分からない。

 縄文のDNA。その霊的意味を問うとしたら?
 次回に続きそう。

 



 このブログは、自分の家系のルーツ探しに燃える叔父の指導に基づいております。
 某テレビ局が、「田舎に泊まろう」でやって来たことがあるという、お墨付きの田舎なのでした。
 母の実家の名字は伏せましたが、重要文化財に関するお話なので、調べればバレバレ? 
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テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

Comment

No title

大河ドラマみたい!!
続きを楽しみにしてます♥

次は縄文だ!

歴史って難しいですね。
普遍的なテーマをどこに見つけて、余分なところをどう削るか、悩みました。
普通のファミリーヒストリーなら、この後、炭鉱採掘に流れて来た先祖や、田んぼの油田で一攫千金を夢見た先祖などへ話を進めると面白いのですが。
私は、大好きな縄文方面からスピリチュアルの世界へ脱線を試みます。
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プロフィール

Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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