2013.11.23
訂正版:2013年秋・川の生まれる場所で

「紅葉は、水の傍でないとね」という父のナビゲートで、実家から近くの岩見ダムまで車を走らせた日のこと。
ひと気のない晩秋の山里には、腐りゆく落ち葉の香が甘く満ちていました。
ヒトが居ない…それだけで、山そのものの、生々しいほどの生命感が露わになる気がするのって、私だけ? どんな言葉で伝えればよいのでしょう。誰か…何か巨大なるものの気配だけがアルというか、居る。普段の会話の中には、見つけられないけれど、ホントは誰もが知っているこの感覚を。
生きている。「お山」という日本語が聖域の代名詞であるように、すべての山々は多かれ少なかれ聖地なのでしょう。
次の日は、作ったばかりの柿すだれが軒下で濡れるような嵐。近所の電柱が吹っ飛んで全国ニュースになったほど。本当に貴重な紅葉狩りになりました。
先日は、ご近所の庭園を散策。
只のお散歩ではありません。日立製作所中央研究所。その広大な敷地は東京ドーム5個分もあって、庭園というより自然の森になっています。
但しここに一般人が入れるのは、春と秋の年2回だけ。私が入ったのは、10年以上住んでいるのに、この日が初めてだったのです。


お目当ては、川の生まれる最初の一滴をこの目で見ること。
以前は、庭園のすぐ傍に住んでいたので、今でもはっきりと覚えています。巨大なブラックボックスのような壁の向こうから湧きたつ森の存在感、息遣いのようなものを。それは深夜から明け方にかけて、どんどん濃厚になってゆくのです。
「気配」の正体が木々や鳥達の目覚めなのか、大地や水、暁の匂いなのか分かりません。けれどその力強さは、さまざまなモノの気配に敏感になりつつあった私の皮膚感覚を、圧倒して余りあるものでした。
森ってこんな感じだったっけ? それともこの場所、この壁の向こうには、何か特別なものがあるのかしら。
壁の一部は中央線と西武線に接していて、その間は遊歩道です。その足元に響く流水音。地図で確かめて、私はそれが野川の水源であること知りました。
野川は、全長25キロで多摩川に注ぎ込んでいる一級河川です。そして、武蔵野公園と野川公園の風景の主役。
この2つの連なった公園は、都内では、私のイチバン好きな公園かもしれません。(全部見てない?)高度経済成長期にはドブ川と化していた流れも今は清流となり、古い武蔵野の景観が保存・再現されています。一見ありふれて見えるその風景は、夢中で花を摘んだり川遊びをした幼い頃を思い出させてくれるのです。
私達が失くしてしまったもの。ガキ大将に引き連れられて遊ぶ子供たちの歓声と、フツーの野山や野原、フツーの小川。そんな場所が在るとしたら、完成された日本庭園よりも、稀少なものだと思いませんか。
特別な何かって、川の生まれる場所だから?
見・た・い! 見て確かめたい!! でも壁の向こうに入れるチャンスは年2回5時間だけ。なかなか都合が合わず、ずっとずっと歯がゆい思いをしていました。

木漏れ日は金色。その煌めくポイントこそが、最初の最初の場所でした。
湧水は集まって大きな池となり、そこから線路の下を抜ける暗渠へ向かって、流れ落ちていました。いつもいつも、水音だけしか知らなかった川の始まりに、やっと巡り合た瞬間です。

水が生命の象徴なのだとしたら、至る所に水の湧くこの地は、生命の根源とも云えるパワーの湧き出ずるところ。森と大地が生きているのだと、感じることが出来るところ。
南インド・アルナーチャラの中腹からも、豊かな水が湧いていたことを思い出しました。若い頃のラマナ・マハルシが暮らしたスカンダー・アシラムの傍で。これを飲めと、差し出された異国の番人の手の中のコップ。
紅葉の盛りまでは、もう一寸。この次は春の山桜の季節に逢いたいです。

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テーマ : スピリチュアルライフ
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