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私は誰…39―出会い③

 もうひとつ、どうしても伝えたかったこと。それは、巨大なるもの、その内側の空洞です。
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 一対一で向き合うとき、ヒトは目と目を合わせ表情を見て、互いのご機嫌を確かめ合います。それは気配だけでも同じです。
 大きな穴に小石を投げ込んで深さを探るように、投げかけた私の気配。けれどもそれは、受け止められることも反響することも無く、消えてしまいました。無音の虚空。一瞬の恐怖。
 「誰か」には感情、心が無い。正確には、感情を受け止めたり映したりする、心の場に当たるものが無い。まるで、不機嫌で残酷なヒトみたいに。

 でも恐怖は、次の瞬間には消えました。それが愛であると分かったから。
 感情でない愛。

 心が無いことについては、少し前に解説済(過去ブログ参照)。くどくど長くてごめんなさい。
 出逢えば即分かってしまうこと。そのような愛、精神が、事実として存在するのだと。

 愛、○○の愛? 陳腐な言葉。でも他に、ふさわしい言葉が見つからない。

 愛とは何でしょう。
 恋の駆け引き一つ出来ない私なんかに、愛を語る経験も資格もないのだけど。

 古代ギリシャの時代から現代まで、愛について語る言葉は巷にあふれています。
 性欲(エロス)と親子愛、真の愛(アガペー)等の愛の分類は、肉体イコール自己というのが大前提です。思いやり、慈悲は行動を表す言葉。モラルや人生論、恋愛成就法etc.…各種哲学が語るのは、愛ではなくて愛の周辺にまつわることだけ。
 愛は見えないし、測れないというのがヒトの世界の常識でした。だから、愛のために何ができるか、何処までできるかという行動論だけが語られてきたのです。
 愛が何処からやってくるのか、愛とは何なのか、愛そのものについて語った言葉を、私はほとんど知りません。

 イメージしてみてましょう。「愛という気」「愛そのものの気配」を。
 母の腕の中でまどろんでいた遠い日のこと。大切な人の指先や肩が触れた瞬間のこと。誰かを思って心から祈るその先に、いつも流れていたもの。ホントは、誰でも知っていること。

 電波や磁力が見えなくても実在するように、愛も在るのかもしれません。生きている命の輝きの中に、きっと。形なき愛の証・代用品のダイヤモンドより、ずっとずっと綺麗な筈です。
 そして愛には、量も質もあります。一人の人間が実際に交際可能な人間は、百人程度。愛し尽くせる人数となると、ごくわずかでしょう。しかし、ヒトがそうだとしても、カレも同じとは限りません。

 恋人も親子も及ばない、深くて大きな愛。すべてのヒト、事物へ降り注ぐ愛。
 まさに海のよう空のように、ヒトの想像の及ばないほど大きくて熱い愛。
 精神が巨大であるとは、そのようなことなのでしょう。

 純粋な愛とは愛すること、それだけ。
 それだけで流れてゆくものがあるのだから。

 なにしろ私は、カレという巨木の上に咲くひとひらの花のようなものだったのです。私の中に流れ込むものは、すべて彼自身が分け与えたもの。彼自身でした。
 残酷なんてとんでもない。何て暖かくて、深い共感に満ちていて優しいのかしら。

 みれば世界のすべては、身もだえしながら切々と愛を謳っていました。
 それは、命そのものの歌。

 カレの無愛想。挨拶も前置きもしなかったのは、私が既に最初っからカレの子供のようなもの、カレの一部だったから。
 最初っていつのいつ? 私とカレ、いつから存在していたのでしょう。
 呼んでもいいでしょうか。神様って!

 カレの伝えようとした肝心のメッセージ、「私が何か」を、正確に理解できるまで、あと十数年。さらに長い長い時間が必要でした。

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テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

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Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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