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私は誰…36―あの渚の風景

 瞑想の質やレベルは、外からは見え難いもの。とはいえ私ってマジ、しょうもないロクデナシに見えるでしょうね。なにしろ傍から見たら、寝転んでばっかりで勉強も仕事もサボりまくりのナンにもしてないヒト??
 真我を探求するのがどれほど困難で、知力と集中力の限りを尽くし、苛烈なくらい自分自身を追い詰める行為であるとしても。

 ロクデナシでも、誰かの役に立ちたいと思ってもいいでしょうか。誰かが今、苦しんでいる。失敗しようとしている。それを見ているだけで、手助けも肩代わりも許されないのは切な過ぎて…。例えば―――公園で灯油を被った同級生や、心を病む人、重い悩みを抱えている人がそばに居るとき、何の役にも立てないなら、私が現世に留まる意味なんてあるのかしら。

 答えを知ってるよ、私はここに居るよって叫びたいのに!  

 もちろん「立派そうな資格、社会的地位、人脈、お金も体力も無くて、性格も悪そうな?」私に、助けを求める人はいません。助けを求めない人を助けるのは、神様でさえ至難の業。まして私なんかには…。

 最初から何も知らなければよかったのに?それでもわたし、知りたいという欲望には勝てなかったでしょう。知るべきことを皆みんな知り尽くしたい。だって目の前に海があるんだもの。

 私は、どこから始めましょう。何ひとつ無いけれど、誰よりも幸せだよって伝えるとしたら。

 それでは、あの海について語りましょう。科学の言葉を使うのはもう無理だけど、自分自身の理性の力を灯にして。
男鹿の海

 瞑想で極限まで自分を追いかけた、意識できる意識の果ては、暗黒ではなく明るい光に満ちた場所のようでした。目で見ている訳はないけれど。

 ちなみに、超常現象・五感以外の感覚は、脳内で五感に変換されて理解されるもののようです。色・音・触感・匂い等…それでも、超感覚と普通の感覚の違いは、正常な理性があればはっきり分かるもの。ちゃんと目覚めて居れば夢と現実を区別できるのと同じです。

 ラマナ・マハルシは夢のない深い眠りとサマディーを同様のものとして、誰もが体験しているものとして捉えました。夢の無い眠りって、ノンレム睡眠ですよね。私達は多分、このノンレム睡眠の渚を暗黒のように感じていると思います。心地よく優しい馴染みの闇。眠りにつくとは、そのような暗黒に堕ちる感覚だと。

 深い眠りとサマディーが同じなら、ワタシという意識を追いかけた果てとノンレム睡眠の渚は、同じ場所のはずでは? でも私の感じた渚は、闇ではなく光に満ちていました。影ひとつない明るさ。まるで別の印象です。
 違うのは風景でなく、私自身の意識の方かもしれません。つまり、見ようとする意志の有無です。クリアな意識を持つ者には明るい光に、意識のない眠りでは暗黒に見えるのではないかと。

 光? そういえば目を閉じると、光を感じることがあります。その光の源を探ると、不思議なことにいつも自分自身でした。ブルーの光の渦。私のオーラなのでしょうか。霊視能力はゼロのハズだけど。
 意識とは、それ自体が大いなる光なのかもしれません。肉体も感情も、生命はすべて光とも云えるけれど、肉体は粗雑な光、高度な知性や愛は繊細な光って感じ。これは価値観の上下ではなく、実際にそう感じるというか、見えてしまうものなので仕方がありません。

 その渚の風景は、ブルーというより淡い透明な水色で、遥か彼方まで続くようなイメージでした。だから海辺のようだと。キラキラとした波は金色?それとも白色光?もしかしたら、光の源は海でしょうか。
 渚の向こうの無意識! 心理学の定義する無意識とは違うのかもしれません。この場合、無いのは自分という意識です。虚無の世界でも、まして隠れた本音や本能というちっぽけなものでもなくて、途方もなくあらゆるものが全てあるところなのだけど。

 西洋哲学のコギト、「我思う故に我あり」を引用するまでもなく、そこを直観的に境目としてイメージしている例はたくさんあるようです。境があるなら、越えるのは難しい?
―――きっと、皆怖いだけ。高いところから堕ちると死んでしまうと本能的に思うように、自分自身を無くしちゃう、戻れなくなるという予感に怯えているだけ。それもまた、死の恐怖です。エゴの最期のあがき?
 でも、知りたくてたまらない。その水の感触を確かめてみたい。意識を保てるだけ保つように頑張れば、きっと大丈夫。
 失うものが何もない高校生だった私は、ポンと渚を蹴って思い切ってダイブ!

12年11月29日靖国神社
 3時間ほどの時が過ぎたようでした。身体は座布団に寝ころんだまま、白いカーテンの向こうはいつのまにか夜。私の意識の中は光の洪水だったので、戻った世界の暗さに戸惑いました。
 幸福や快感を感じる主体となる意識がなかったので、幸福感や気持ち良さを表現することはできません。眼を閉じてさえいないから、眠っていた訳はなく、クリアな感覚だったのは間違いないのに。ただ、世界が暗くて不幸と苦痛に満ちていて、現実感をなくしてしまっただけ。
 誰かが話しかける、誰かが答える。そして私は何処に居るのだろう。私の一部は未だ、あの渚から戻って来れずにいるのかしら。

 難しいのは、記憶を持ち帰ること。語ることは不可能だと、昔から云われている通りです。肉体感覚はくるんと戻ってきても、世界が幻のようにふわふわしている違和感は消えません。溶けてしまった心を再構成して、指先で這うように歩む戻り道。二度試してみて、二度とも同じでした。もう十分、肉体を持っている間は、もう行かなくてもいいのかな。

 一般的には、その最後の場所にたどり着く直前には、悪魔の誘惑や神仏の祝福があって、足止めされるのだと言われています。それがエゴの最期のあがき、足枷になると。神への信仰一筋の修行者はもちろん、人格神を否定する智慧の道を選んだ修行者でさえも。
 後者の代表格、禅宗では、神仏も幻と見よと教えているようです。神仏とは、エゴが最後に自分自身を映し出す鏡の中の虚像? あるいは、虚像である世界が実在するように、神仏もまた客観的実在? 多分、どちらも間違いではありません。真我以外は元々すべて幻なのだから。
 誘惑も祝福も、恐らくは真に目覚めるために必要なプロセスなのでしょう。眠りと真我の目覚めの狭間の永遠の距離の。

 ずっと後にその知識を得たとき、私が神仏を見ないのは、大したレベルでないためだろうと思いました。私なんて大した人間じゃないし…。
 古い卒業アルバムには、遠い眼をしたままの奇妙な笑顔が残っています。うまく笑えない不幸の仮面の下の、隠しきれない幸いの輝き。今なら、それは瞑想中のヒトの顔だと分かるけれど。
 頑固な無神論者には、悪魔も神仏もよほど声をかけにくかったに違いありません。ああ、本当に長い長い時が経ってしまいました。
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テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

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Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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