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私は誰…49―川のように水のように

   2010.11.16多摩川

 水の流れを見て、そこに川があることを知らないヒトは居ません。けれど、どの石、泥、どの水を川と呼んだらよいのでしょう。同じ水、土くれが留まることはなく、やがてはすべて流れ去り、形をかえてしまうというのに。
 崖の地層には、洪水のたびに流れを大きく変えた、長い長い歴史の跡が刻まれています。ヒトがそれを同じ名で呼んだとしても、昨日今日、おんなじモノなど何処にもありません。握りしめても握りしめても、指先から零れおちてしまうだけ。最初っから、この世界に川なんてモノは無かったというのが、正しい結論ではありませんか。
 そこに川があると思うのは私達のマーヤー、心の幻影に過ぎません。けれど、それを知った後にも尚、川はやっぱりそこに在って、田畑や私達自身を潤し、文明までも育んでいます。――ヒトの営み、文明もまたマーヤーなのだけれど。

 わたしは何処に居るのでしょう。この肉体は、一瞬たりとも呼吸せずに、一日たりとも飲まずには生きられません。そこにあるのは、骨ですら数年のうちに入れ替わってしまうエネルギーのシステムだけ。私達の肉体もまた川のようなモノ。それは生物学的、全き事実なのです。
 私が私を自分自身だと認識させるもう一つのモノ。それは記憶です。この肉体で生きてきたという記憶。しかしその映像も音も匂いも外部記憶としてメディアに保存できるとしたら? 
 それはもう、そう遠い未来の話ではありません。例えるなら、攻殻機動隊でサイボーグ草薙素子の感じるアイデンティティへの不安のよう。記憶もまた、幻でないと誰が言えるでしょう。

 わたしがわたしである証しはどこにあるの? ゴーストと呼び、魂と呼び、真我ともいうそれは何処に?

 ―――それって怖くないですか。
 遠い昔、そう訊ねた友人が居ました。キャンパスを並んで歩いているときに。

 何故、私はちっともこわくないのかしら。私は知っている。本当の私がちゃんと在るって。何故知っていると思うのか説明できなかったけれど。その時は。
 存在に対する不安は、現代芸術の大きなテーマです。西洋的知性、精神は、神の死から始まった孤独と、存在に対する不安を抱え続けてきました。虚無に対する不安。
 東洋の精神は、色即是空。虚無は静けさ、安らぎなのだけど。

 血管の中を流れ続ける命の証し。私という肉体がそこに在ると思うのは、マーヤーに過ぎません。それでも尚、生きています。生きています。
 ラマナは、ヒトがヒトを愛しいと思うのは、真我の故だと語りました。命がこんなにも愛おしいのは、多分、この肉体を川のように流れ続ける原因、命の源が真我、魂であると、誰もが無意識に識っているから。
 ほうら、愛しい愛しいと身もだえしながら天から降り注ぎ、ハートと血管をとおって全身を潤し満たしていくものがあるでしょう。

2015.2.3節分の越中島の夕

 自分を特別だと思う人間なんて、最低だと思って来たけれど、それでもamazing grace、特別な恩寵というものがあることを、私は認めなければなりません。

 「神サマ」も「特別」も大嫌いで、それを認めるのに、何十年もかかってしまった。神様の呼び声を無視し続けた。偶然開いた本のページで、ひとつの言葉がキラキラ光って見えても。
 本当に、長い時間が流れ去ってしまった。

 今なら、言ってもいいでしょうか。
 私は知っているよ。私が誰なのか。だから、人も町もこの肉体も、失われてしまうすべてがちっとも悲しくないの。
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秋田の聖母マリア

 実家の近くに聖地があるので、休日にちょっとお出かけしてみました。涙を流すマリア像がある修道院です。
     秋田の聖母マリア1

 それは、日本のカトリック教会の教区長が認め、バチカンも受理したという正式な奇跡。つまり、この涙、超常現象が、狂人や異教徒の妄想ではないと認定されている、ということらしいのだけれど、そこら辺のキリスト教的事情は私にはよく分かりません。

 修道院を示す案内板は、人気の温泉リゾートへと続くバス通り沿いにありました。
 以前読んだ本には山奥の修道院として紹介されていましたが、郊外の田園地帯という風情です。通りからそれらしい建物は見えないけれど、坂道を登っていくと、あっという間にその丘の上。

 季節は春。小雨の中、萌え始めた新緑と山桜に彩られた山並みが幾重にも連なって、360度に近い見晴らしが私を迎えてくれました。
 小さい丘かと思ったら、修道院の手前には、お寺と畑までありました。バス通りが薄暗く湿った雰囲気だったのに比べ、なんという空気の軽やかさ、そして明るさ。
 聖母マリアの奇跡が起こったその丘は、踏み込んだ瞬間から体中に清々しい気が満ちてくる、そんな場所でした。

2014.5.5聖体奉仕会

 小さな木彫のマリア像が涙を流したのは70~80年代のこと。それ以外に、聖痕出現、預言、ヒーリング等さまざまな奇跡が、この地で起きたことが伝えられています。

 その預言の中には、世界の終りを告げる怖い言葉もあったようです。人々が悔い改めなければ!? キリスト教徒でない私は、自分を罪人だなんて思いません。でも、原罪がカルマの別の解釈なのだとしたら―――。私達みんな、あの震災で、世界が失われる恐怖を体感しなかったっけ?

 そういう訳で、この地は聖母マリアの聖地として知られるようになりました。ホンモノのパワースポット? こんな田舎なのに、韓国やフィリピン等から訪れて下さる熱心な巡礼者が少なくないのだとか。
 でも日本では何故か、知る人ぞ知るって感じ。お陰様で私のような異教徒も、騒がしい観光客に煩わされることなく巡礼することができるのでラッキーです。

 10年以上前、小学生の甥っこと母を伴って訪れた時には、古びた聖堂のあるちっぽけな修道院でした。お隣の日蓮宗のお寺の方が立派に見えたけれど。
 人々の信仰の深さが教会を大きくするという言葉の通り、今では新しい大き目の聖堂(何故か純和風)が出来ていました。こちらも立派になった駐車場には観光バスが一台止まっていて、聖堂の中からは途切れなく響く祈りの声。

 高野山から始まって、日本のお寺は「山」を称号の一つにしています。山そのものを御神体と見なすのは、さらに古い日本の伝統でしょう。
 シヴァ神のハートと称されるインドのアルナーチャラも、山そのものが御神体でした。英語では山(mountain)ではなくて丘(hill)。いずれにしても、高い場所が聖地となるのは、それがパワーを集める形だから?

 パワースポットのブームも、奇跡への信仰も、学者や修行者には子供っぽく見えるかもしれません。しかし、現世利益への願いは、間違いなく真の信仰への入口のひとつです。苦しみの中から学ぶことこそが神の法だから。

 ホントのところ、宗教宗派は関係なし。私は奇跡を信じる者、神の実在を…識る者。(名と形は別でも)そして多分、この場所で稀な奇跡が実際に起こっのだと、私の全感覚が教えてくれているのです。
 それは、どれほど尊い祝福なのでしょう。

 神様の恩寵も祝福も、ホントはいつも誰にでも必要なのだと。それ無しに生きているモノなど何ひとつ無いのだと、今の私にはちょっとだけ分かる気がします。

 どうか、我らの祈りが天に届きますように。

日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ
(2001/10)
安田 貞治

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無題

 首を切られました。

 変人という自覚はあったけど、えっそこまで?! っていう誤解と悪口の津波に飲まれた感じ。

    公園の蓮

テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

プロフィール

Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
20世紀インドの大聖者ラマナ・マハルシ、聖地アルナーチャラとの深い縁を支えに、宗教も哲学も超えて行きます。真の自分をみつけるお手伝いが出来たらいいなあ。
私はわたし。
いつだって幸せ。

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