02
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
24
25
26
27
28
   

ご機嫌斜め中――癒して癒されたくて

 私は、この頃ご機嫌斜め。
 瞑想の達人!?ともなれば、自分の深層意識を把握していて当然です。うん! 
 僧籍も学位も、カウンセリング資格も無いから、何の証明もできないけれど。

 ようするに、私は現在、心が疲れて安静が必要な状態ってことです。


2018-01-31スーパーブルーブラッドムーン

 精神医学、カウンセリングで扱う心の領域は、深層とはいっても、真の三昧(サマディー)ほどには深くありません。超能力などを研究する学者さんもいらっしゃると思いますが、深層の真我=神。神ご自身を分析できているハズもなく。
 だから、私には心理学ってカンタン。もっとも、自分自身の深層意識を把握して行動できるとしたら、それはもはや隠された深層ではないので、エート!?? キャラは元から崩壊か? 

 根本的に、日本語の心という言葉ってアバウト。インド哲学なら、心はアハンカーラ=自我、チッタ=記憶、ブッディ=判断または良心、マナス=想像または感情と4分類。英語でも、mind=考える心、heart=感じる心と2分類です。
 心を病む、という場合の心は、インド哲学では神経の鞘と呼ばれる部分に当たります。名称や分類法は、翻訳者によってさまざまですが、肉体の鞘、神経の鞘、意識の鞘等々。いちばんの内側の鞘が、魂、真我に相当する歓喜の鞘。それは、絶対に傷つくことも病むことも無い、永遠、普遍のものとされています。

わたしたち、ホントのホントはいつだって幸いで完璧だよ!

 非科学的? 確かに、西洋医学には今は未だ無い身体概念ですが、証明される日はそう遠くないでしょう。
 だから、私は心ではなく「神経」という言葉を使いたいと思います。

 みんな、神経が傷ついて動けないヒトを前にすると、「もっと頑張れ」「もうちょっとやる気を出せば」って言ってませんか。精神医学の本にはどれにでも、「励ましたらダメ」「頑張らせるな」と書いてあるのに。
 しかし、その種の勘違い、無神経を笑うことはできません。他人に同情するには、共感できるイメージというものが必要です。運動しすぎて体が疲れたり、怪我や病気をした場合なら、イメージするのもカンタン。治療やお休みが必要だと、すぐに納得してもらえます。神経の傷の方は見えないから、イメージしにくい、というのが根本的な問題なのです。
 その結果、全治六か月以上の心的外傷も、人格崩壊の危機でも、必要な支えを貰えない。それがこの世界の常識です。病人が無理をして(させられて)、病をこじらせて悪化。心の風邪ともいわれるうつ病でさえ、実際にはなかなか治らなくて、苦しんでいる人がたくさん、たくさん…。悲しいけれど、世間ではよくあることです。
 
私には、そのイメージがアリアリと見えるのに。 
病人を病院の替わりにジムへ行かせるようなアドバイス、止めようよ。


 私はご機嫌斜め中。私の場合、深層=表層なので、自分の神経の状態を観察、分析、把握して、休ませています。例えば、こんな感じ。

――例えば、店先や駅や各種窓口などで、意味もなく待たされたとき、何分でキレそうになる? 例えば、大切な約束に、意味もなく遅れがち。5分? 10分? 時間の感覚が変。例えば、好きな映画やドラマ。盛り上がるはずのシーンが、耐え難い。例えば、大好きなスキーにやっと行けたのに、ゲレンデやリフトで緊張して吐きそう――。

 つまり、好きでも嫌いでも、スリルはすべてストレスになってしまっている。
 暑いのも寒いのも、眩しいのもうるさいのも、蒸れた下着もゴムの感触も、つまらないテレビも、使い慣れないスマホも、何もかも耐え難く、苦しい。苦しくて、堪らない。

 うわ、これってボロボロ。私の神経は、かなりひどい病的状態にあるようです。医者の診断よりも確か?(多分)
 体の傷がヒリヒリ痛むように、私の神経がヒリヒリと悲鳴を上げています。苦しい。
 病院に行って訴えたら、安定剤をたっぷり貰えるでしょう。

 私の場合は、瞑想のテクニックで気持ちを安定させられるので、薬は要りません。アルコールも麻薬も必要なし。(真実の愛と甘いお菓子は少々欲しい…)。

 瞑想も、マインドフルネスも、癒しの効果は抜群。内なる幸いが、いつでも見つけられるはずです。お勧めです。

 ただし、この安静状態は健康状態ではないので、無理はできません。超虚弱で繊細な体調、神経状態であることに変わりはありません。ちゃんと治るには、それなりの時間が掛かるものなのです。今のところ、人並みな言動を保つには、人並み以上の努力が必要です。――疲れるなあ。

 そして、私の場合は達人過ぎて、別の問題が生じます。
 真我は、至福の境地。内なる喜び。つまり、外側に原因がない純粋な喜びです。私の笑顔、意味不明の笑いっていうことになっちゃいます。人はそれをどう解釈するでしょうか。優しそう? 幸せそう? それならうれしいけれど、気味の悪い思い出し笑いやあざ笑いに見えることもあるようです。何しろ私って、「根が神経質」だし。
 そして、もうひとつ、瞑想に入っている私は、誰に対してもエラそうなため口です。高僧も社長も、犬猫も同じように𠮟責(きゃあ~!)。だって、自他の区別さえどんどん曖昧になっちゃうのだもの。(プチ・サマディー?)半分チャネリングしながらしゃべっている、とイメージすれば近いでしょうか。
 しかし、世間の常識って、心の傷のように見えないものは無いというレベルでしたね。
 私のこの変人レベル、後から説明しても意味不明。僧籍も学位も、カウンセリングの資格も無い人間の、くだらない言い訳に聴こえるかもしれません。困ったものです。


紫花菜1

 私はご機嫌斜め中。この神経の傷って、全治六か月くらい? 治療期間は、新たなストレスがやって来ない場合を想定しているのが、難しいところ。

 ナニ? そろそれ新しい仕事を探して、働け?
 無理! でも、少なくとも心の病には詳しいので、そのような方に寄り添ったアドバイスなら、できるかな。
 何よりも、他人を助けるのって、助ける側にとって、最高の癒しです。
 私は、誰かを助けたくて仕方がないのです。
 もちろん、瞑想と真理についてのアドバイスも得意中の得意です。

 各種質問OK。その手のご依頼、お待ちしています。
スポンサーサイト

テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

死の傍らで…――恐怖を抱きしめて

2017.10.31柿すだれ (448x324)
写真じゃ食べられないなんて、言わないで。

 嘘でもはったりでもなくて、私は死ぬの、怖くないもん。

 けれどけれど、父の手を取って、父の命の炎がすうっと消えていくのを見ていました。
 感じていました。
 その、死の恐怖と絶望を。
 そして、母の心の中の悲鳴。

 末期の苦しい息遣い、強張ったままの肩先は震えていました。
 お父さん、何がそんなに怖かったの?

 インドの大聖者ラマナ・マハルシは17歳の少年の頃、突然死の恐怖を感じ、「死んでみる」ことにしました。それが、真我の道を歩むきっかけになった「死の体験」です。ラマナのエピソードの中で、最も有名なお話でしょう。
 彼が「戻って」、体験を語ることができたから、私の今が在る訳です。お釈迦様も。
 疑問を持つ。体験する。識る。すごくシンプルで簡単。これこそ、智慧の道ギャーナです。
 しかし、普通のヒトは、そんな風に死と向き合うことができません。皆みんな、自分の弱さや痛みを見るのが怖くて、その向こうの真実からも目を背けてばかり。

 ワタシは?

 それより何より、「死の体験」で、肉体が本当の自分ではないと悟ったら、ヒトは死ぬのが怖くなくなるの?悲しくなくなるの? 本当に?
 悲しみも苦しみも感じないとしたら、タダの無神経の鉄面皮です。もっとも、そういうタイプの方が、人格者ぽく見えるかもしれません。

 人格者は、聖者と似たようなものでしょうか。人格者の一般的なイメージは、立派な大人だと思います。酸いも甘いも嚙み分ける冷静で器の大きいヒト。会話も上手で…? 
 それってちょっと違う感じ。俗世間から見た人格者と、ラマナのような聖者は、似て非なるタイプだろうと私は推測します。
 ラマナの本質はきっと、はた迷惑なくらい子ども。潔癖過ぎて純粋過ぎる、成熟した知性を持つ子どもなのだろうと思います。それを、どうやって評価するかは、また別の問題かな。

 私は知っています。ヨガや瞑想の修行が、心と体を敏感で共感的にするものであることを。柔らかな体、柔らかな心がヨギの特徴と云われているのです。そして、敏感さ、繊細さは、傷つきやすさと紙一重です。

 死と喪失は、マーヤー=幻想に過ぎません。幻想は心を傷つけることができません。そして、真の我は傷つくことも失われることも決して無い、永遠なるもの。
 しかし、世界はそれを知らない人々の痛みと涙で溢れています。聖者に自他の区別は無く、それ故にヒトは解脱してもなお、悲しみと痛みを感じてしまうのです。肉体と神経のレベルで。


 記録によると、ラマナは親しい人…あるいは動物たちの最期に、何度も寄り添いました。涙を流しました。
 死がラマナを傷つけることはありません。けれども、それによって傷つく側の人々の気持ちに、深く共感していただろうと、私は考えるのです。

 傷つく人。それは残される者達とは限りません。何よりも先ず、末期宣告を受けて絶え間ない痛みにさらされ、自分自身の喪失という恐怖に引き裂かれる、旅立とうとする人そのものって場合もある訳です。――悲しいね。
 
 肉体が自分ではないと知っていたら。あるいは、来世やお迎えという信仰をしっかりと持っていたら。

 「未だ、お迎えが来なくてごめんなさい」
 それが20年前に亡くなった祖母の口癖。その死顔は喜びに光り輝いていました。目には、歓喜の涙。
 祖母は享年90歳と1カ月、父は89歳と9カ月。そんなに違わないはずなのに。
 ウサギ君だって、私の膝の上で、満足しきって旅立ったのに。

 死にたくなかった? 怖かった? 自分が消えてしまうって?
 そのようにして、父の恐怖と絶望が、私の胸の奥に深く深く沁み着いてしまいました。
 
 ああ、死の恐怖! それはどれほど深く、世界を支配しているのでしょう。
 歴史を。人類を。
 それこそが、我等の最大のテーマなのかもしれません。
 
 死後のお迎えも来世の生まれ変わりも、信じてなかった父。
 気功治療で痛みを取るのも、拒否されて。
 私は、語ることができませんでした。
 でも、私がそれをしなくて、他の誰にできましょう。

 あなたの涙を私も流しましょう。
 だからもう、誰も泣かなくていいよ。
 すべての傷ついた魂に、平安を。

 お父さん。
 苦しまなくていいってもう分かるよね。
 そこから、永遠が見えるはずだよ。
 どうか、安らかな眠りを。
  
 
 ワタシは…。
 私は勇者ではありません。肉体が自分ではないと知っているだけ。
 優しくなんかありません。身近な人々の強い感情を、共鳴、共有しやすいだけ。

 棺に添える寄せ書きに、母は「いつまでも私達を守って」と書きました。
 ダメダメ。現世の迷いや未練を捨てて成仏できるように、送ってあげるのが私達の務めだよ。
 うーん、そっちも問題だったりして。
(続くかも)

2017.10.21父と見た大平山 (448x294)
紅葉で真っ赤に染まった太平山の山並み。大好きな風景を前にうつむいたきりだった父が偲ばれます。

※お悔やみをくださった方々へ。
 お返事が遅れて申し訳ありませんでした。
 ありがとう。私はちゃんと生きています。

テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

死の傍らを生きて…3――父の入院

   2017-10-14新城川白鳥 (373x448)

 朝、父が吐血し救急車で病院へ行く事になりました。
 テーブル周りや洗面台が血だらけになって、止まらないので焦ったけれど、舌癌が少し進んで、口の中をちょっと切っただけ…。軽傷と云えば軽傷。けれど、今後このような症状を繰り返す可能性は大という説明を受け、ホスピスへの入院が決まりました。

 もう、家へ戻ってくることは無いのかしら。父の手を引いて川の白鳥を見た、あれが最後のお散歩?

 私にできることなんて、あまり無いのかもしれません。気を入れても、全治できないなら気休めにしかならないかもしれない。
 お酒と塩辛いもの、以前は煙草も大好きだった父。人は己のカルマを自ら受け入れて、生きるしかないのです。


   2017.7.29土崎港夕暮れ2-2

 私は、私にできることをする。今居るこの世界に対して。ただ、それだけ――。
 

テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

番外編―神様とおしゃべりって科学的にアリ?

2017.8.15千秋公園ハス1 (448x309)

 これって、「ラマナ・マハルシとおしゃべり」というタイトルのブログなんですけれど、「実際に話をしているはずないじゃん」と思っている方も、今回は眉に唾を付けたままでいいので、最後までお付き合いください。
 
 科学的に正体不明でも、あるのが常識と信じられているモノの代表に、マッサージのツボがあります。実際に効きますよね?
 各種霊現象、超常現象って、私の中ではすでにツボ程度の既成事実なんです。
 それでも、未体験の現象は無数にあって、びっくりさせられる日々です。先日も実は…。

 その前に、そもそも、私って霊能者なの?


2015.12.1明治神宮

 お釈迦様は、元来、神霊も超能力も転生もスルーして教えていました。(知ってたはずだけど)その原点に近い禅宗もまた、その種の現象に関して虚無主義、懐疑主義です。すべては、幻に過ぎないから、神に逢っては神を殺し、仏に逢っては仏を殺し、無我の境地に至るべきであると。
 逆からみると、そういう現象が実在することが、経験として知られてきたという証しです。全く信じていなくても、現れてしまう。真の悟りではないけれど、その少し手前の道の途上で確実に出会うと。

 それはヨガでは、チャクラが開く、あるいはクンダリニー覚醒と呼ばれている現象です。

 科学は、そのような現象を、どこまで解明できているのでしょう。宗教に直結する分野なのでスルー? それでも、臨死体験に限ってなら、資料が多数ありました。臨死体験と宗教体験の類似性は、知る人ぞ知る常識です。研究者の涙ぐましい取り組みには、全く頭が下がります。
 それにつけても、実在する現象であるという、存在の証明は、困難です。優秀なはずの能力者も、実験の現場では成功したり失敗したり。同じ条件なら、誰がやっても同じ結果を再現できるという科学的再現性が、得られないようです。

 私の推測では、これらの実験には、前提となる科学的条件が足りません。そもそも、超常現象を引き起こす未知の微粒子や波動がどのようなものか分かっていない段階で、100%の科学的再現性を期待するのは、無理というものでしょう。

 一方、そんな現象は無いという否定の証明も困難です。嘘つきを探してきて、すべての霊現象を嘘と決めつけるのは、科学ではありません。存在しないモノを存在しないと明言するには、世界中の事例すべてを検証しなければなりません。古今東西のすべての霊能者と霊現象を対象として。これは、論理学でいわれている悪魔の証明、不可能証明になってしまいます。

 それでも、多少分かっていることはあります。

 超常現象を引き起こすのは、電磁波ではありません。しかし、電磁波に近い性質を持つものではないかと推測されています。電磁波の強い場所で霊現象が起きやすい、強い霊能力は磁場を狂わせる等などの現象が知られているためです。
 20世紀の聖者は、神様というラジオ局にチューニングせよと教えました。今なら神様ネット、宇宙ネットにプラグオンかな。媒体は?

 臨死体験の本の中では、霊現象の実在の検証例として、幽体離脱体験をあげていました。幽体離脱中の体験が、実体験なのか、夢なのか、証言者は噓つきかどうか。検証の結果は、著者自身が疑念を晴らせず五分五分…。

 カギは、証言者の信頼性でしょうか。しかし、世の中には疑うことも騙すこともできない存在があります。それは、自分自身です。自分がそのような体験をしたら?

①私は十分に冷静で明晰な状態か? YES!
②私はトリックやごまかし行ったか? NO!
③他人が私にその種のトリックやごまかしを行った可能性はあるか? NO!
④私に、嘘やごまかしをする動機や技巧はあるか?潜在意識も含めて。 NO, NO!


    2017.7.2長野1

 例えばある日、私はカメラのモニターを覗き込んで、目を白黒させていました。パワースポットを眺めている私の目には、普通の風景しか見えません。しかし、レンズを向けたモニターの中には、霊の顔と正体不明の光がはっきりと見えちゃっていました。
 モニターの中でだけ見えていて、確実に写せる。それってまるで、ポケモンGOだあ!

①リアルに見えない私は、全く普通の正常人。
②私のコンパクト・デジタル・カメラに、通信機能もゲーム機能もない。

 要するに、これって科学的再現性のある霊現象だったりして!

 何故、そしてどうやってそれが起こるのか? そのシステムは分かりません。しかし、座敷童がスマホで自撮りするという噂も、聞いたことがあります。多分、コンデジ、スマホ、ポケモンGO等のデリケートな電子機器の操作は、霊現象の主の得意分野なのでしょう。

 いちばん妥当なのは、霊現象の正体は、意思と目的を持つ電磁波に近いものであるという仮説です。エーテル?
 ところで、自分自身の意思と目的を持つとは、自我、心を持つという概念に相当しませんか。個我、アートマン、何と呼んでもかまいません。つまりは肉体を持たない魂が実在するという仮説なのです。
 これは、すごくすごく大事なテーマです。宗教だからってスルーしないで、科学者たちが立証してくれる日が待ち遠しいです。


2017.8.15千秋公園ハス3 (448x336)

 さて、ここからが本題。神様とのおしゃべりが、アリかナシか。大事なのは、お話の中身の方ですよね。

 実は先日、大切な友人の未熟な言動にびっくりして、罵ってしまいました。正式の団体の正式のイニシエーション(洗礼)を受けて、長年修行をしている方なのにと。

 実のところ、私にとって、イニシエーションも各種資格もほとんどナンセンスなんです。
 二十世紀の大聖者ラマナ・マハルシは、イニシエーションを与える、つまり正式の弟子を取らない方でした。グル(師匠)と弟子の区別もなければ、人間と動物の区別もない。だからこその平等と平安です。
 結果として、今も昔もアルナーチャラのラマナ・アシラムには、教団も教義も無し。ただ、「who am I?私は誰か」の言葉だけをよりどころに、彼を慕う「自称弟子」たちがそこに集ってくる。それだけです。

 嘘や間違い、ごまかしは世俗の世界では当たり前。怒る私も未熟…。けれど、信仰や修行に直接かかわる問題ともなると、引くに引けない感じでした。真実、真理を命を懸けて愛しているから。

――失望、悲嘆。

 すると翌日、聖なる御方の優しいイメージが現れて、「彼は私の息子達のひとりです。許してあげてください」と私に告げました。

 生身の人間のように、姿が見えた訳でも声が聞こえた訳でもありません。しかし、その気配と印象が、私自身の内側にはっきりとしたメッセージを残しました。母の悲しみ、母の慈しみ、深い愛と優しさが、私自身の中にもある?
 重いカルマを軽くしてくださるというその御方。ちょっと過保護なお母さんみたいだけれど、その愛情深さ、絆の強さに完敗です。

 ああ、それがイニシエーションの意味だったのですね。
 そしてまたそれは、庇護をうけるその人自身が真面目に修行をしてきたという証し。尊い素晴らしいことではありませんか。

 神様と、あるいは今は亡いはずの聖なる存在とお話ができるかどうか。
 私が正直で正気だから、信じてくださいというだけでは、科学的証明は不十分だけど、これがワタシ。私は、そのような日常を生きています。
 何ができるでしょう。この私に。

 その御方の言葉を、友人に伝えました。
 愛は伝わったでしょうか。見せてあげられたらイイのに。

テーマ : スピリチュアルライフ
ジャンル : 心と身体

松林で秋を探す

      2017.8.21新城川コスモス

 新城川は、父のお気に入りのお散歩コースです。河原には咲き始めたコスモス。
 爽やかな空がうれしくて、足を延ばして海沿いの松林まで歩きました。

 カメラが曲っているのではありません。木々の傾きは、風の向きを示しているのです。
 海からの強い季節風に、いつもさらされている林。その厳しさと逞しさ、豊かさが、ふいに私の胸を突きます。
 ひと気のない遊歩道は、緑の匂いばかり濃くて、カマキリ、バッタ、シマヘビ等の天下。そして、木や草の芽が柔らかな顔をのぞかせていて、足の置き所に困ります。なんという柔らかさかしら。
 蝉しぐれが去って、もう秋の虫の季節だというのに、潮の香りと光の色が夏のままでした。
 本当に、今年も暑くて長かったものね。

2017.8.27松林1 (1)

2017.8.27松林2

 日々、痩せて衰えていく父。それでも、慣れた道を歩む足取りは、意外にしっかりとしています。
 
 こんな、何でもない風景が、愛おしくてたまらなくなる。いつか時が過ぎたら、きっと。
 そんな予感がします。

プロフィール

Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
生きるのが下手で、得意なのが瞑想だけっていうのは自慢…かどうか??自己流の瞑想がインドの聖者ラマナ・マハルシに似過ぎているので、勝手に師、グルと思ってます。
哲学、宗教、音楽、自然etc.難しい話がしたくてたまらない方、遊びに来て下さい。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

FC2カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR