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死の傍らを生きて…2――桜の下で逝くもの送るもの

2017.4.30大潟村

 春爛漫の5月、父は舌癌ステージⅣの診断を受けました。黄金週間で遊びに来ていた私達姉妹と、母と、父本人とでその宣告を聞きました。
 
――それって末期がんってこと? 

 担当医師の話によると、舌癌は質の良くないがんだそうです。放射線治療や抗がん剤で、完治できないと。

――ようするに、手術しないとすぐ死んじゃうって意味? 

 もうリンパに転移しているから、手術も大変です。まず、舌がほとんどなくなり顎の形も変わる。食事の味わいも、おしゃべりもほとんどできなくなって、胃ろうで栄養補助になる可能性が高いと説明されました。

「父は、自分の好きにするでしょう。それでいいよね」
青ざめる母の横で、私が代表してそう応えました。
 私達家族は冷静で、冷静すぎて、医師には不思議に見えたでしょうか。

 この宣告の日の深夜、大叔母の訃報。大きな事件って、重なるものですね。
 大叔母は95歳。祖父の妹です。出戻りのひとり暮らしだったので、実家の甥姪、すなわち母の兄弟一同で介護していました。つまり、自分の家のお葬式のような騒ぎになったということです。
 いくらひとり身であっても、人一人この世を去るには、いろいろと面倒な手続きや作業があるものですね。既に高齢の甥姪たちは、夜遅くまで駆けまわっていました。私の役割といえば、車の送迎と、全日程に出席してサクラになるくらいでしたが。
 お葬式のサクラ? 予想通り、離婚先に残した実子も孫も来なくて、友人も一組だけという寂しい式でした。

 どうしても、考えずにはいられません。私だってひとり身だから。未婚で親族も少ないから、行く末は、もっと寂しくなるのかしらと。
 先月の、幼い少女の葬儀と比べて、別れを惜しむ声が少なすぎるは仕方がないことだけど。

 火葬もシンプルに、お坊さん抜きでした。私は、水を供えるついでに、こっそりとインドのマントラを唱えました。ガンジスに漂う煙を思い出しながら。そして、窓の外は、未だ満開の山桜。

 願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃

 これは西行法師の歌。西行は、その願い通り春に亡くなったと伝えられています。如月は2月のことですが、旧暦を新暦に直すと3月。秋田の山桜は、今が盛り。だから、この歌の通りだよね、という母。
 山も川も、再生の喜びを謳う季節。花に送られ、大好きだった実家のお墓に入ることができた叔母さんは、きっと幸いだねって。

 そのようにして、黄金週間は瞬く間に終わり、父の検査と治療が始まりました。

2017.5.10国花苑関山

 ひと通りの検査の後、あらためて医師から治療方針を聞かれた父は、担当医師と家族の前で、宣言しました。
「89歳です。私のトシの5年生存率は、元々1~2割でしょう。これまで通りの普通の生活を、できるだけ続けられるようにしてください」
 つまり、手術はしないってことです。家族一同、納得。医師は、まだまだ体力がある父に手術を勧めたいようで、反対する者はいないのかと見渡していました。

 医学界、というより自然派の健康法を好む人々の間には、食べられなくなるイコール本来の寿命であるという説があります。臓器移植だけでなく、点滴も輸血も胃ろうも、自然の法則に反していると。
 生きとし生けるものは、そんな寿命、肉体の終わりを、受け入れるべき? それは、苦しみでなく幸福な最期だって、ホントのホント? 
 少なくとも、どこかで「不自然な」治療に見切りをつけるべきという考え方には、私も賛成です。
 ウサギ君の最期も似たような状況でした。歯が悪くなって食べられなくなり、手術もできなくて、点滴、点滴。どこで治療を打ち切るべきか悩みました。きっと、安らかな最期だったと信じています。けれど、その似たような判断を、今、実の父がするなんて。

 人は生きて死ぬ。そんな当たり前が、簡単なようですごく難しい。

 私の中で、神のごとき視線が静かに見守っていました。人は自らの死を受け入れられるものなのかと。
 ちなみに父は、無宗教を自認する日本人のひとりです。
 
 マラソンも山登りも山菜取りもスキーもできなくなって、頭も体もすご~くドン臭くなった父だけど、未だ介護は必要なし。それで、少しでも長く生きたい、そのためには何でもしたいって気持ちに、ならないのかな。
 フツーの無宗教の日本人は、お迎えも再生もホントにあるって、フツーに信じてるものなのかな。だとしたら、それって無宗教ではないんだけれど。

「できれば、2020年の東京オリンピックで、聖火ランナーをやりたいですな。聖火はきっと、ご近所を走るでしょうから」
 OK、きっとその願いは叶うでしょう。
 この桜、2020年の春も父と一緒に見られますように。

 
2017.5.10国花苑1
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紫陽花―こころをたとへん

2017.6.20郷土の森アジサイ1

 サイクリングロードを南下して、郷土の森博物館へ、初めて行ってみました。
 武蔵野の風情を残す庭園には、古民家や滝も。
 でも、今日の主役は1万株のアジサイです。


2017.6.20郷土の森の滝

2017.6.20郷土の森アジサイ桃色

2017.6.20郷土の森アジサイ2

2017.6.20郷土の森アジサイ4

日本の夏――祭りそして祈り

 秋田は郷土芸能の宝庫。けれど、お祭りの出し物って、その日その場所へ行かなければ見られません。幼稚園までしか住んでいない私が、ほとんど未体験でもしょうがない。

 5月、それを一度に見られる祭典があるというので、母と一緒に出掛けました。
 東京で大事なイベントに参加し損ねちゃったから、せめてもの気晴らしに。


2017.5.28西馬内盆踊り1 (448x401)

 イチバンのお目当ては、西馬音内(にしもない)盆踊りでした。踊り好きの母が、ぜひ一度見てみたいというので。
 羽後町西馬音内地区の盆踊り。日本三大盆踊りのひとつらしいけれど、羽後町は遠いし、ホテルの予約も難しいのかな。
 三大盆踊りの他の二つは、徳島の阿波踊りと岐阜の郡上踊りだそうです。アレ、おわら風の盆は入ってないんだ…。
 それに比べると知る人ぞ知るって感じ。そんな超マイナーな田舎町に、どうしてそんな素敵な踊りが伝わっているのか、私も興味津々でした。

 駅前の特設会場の周りには、特産品販売のテントが並び、意外なほどに人込みでした。そういえば、駐車スペースを探すのに苦労したっけ。
 ステージに、ようやく踊り手たちが登場。スピーカーから、お囃子と歌が流れ始めました。

 まず、独特の衣裳に目を奪われます。揃いの浴衣などは着ません。先祖代々受け継ぐ、こだわりの端縫いの衣裳(パッチワークだ!)です。頭には、黒い彦三頭巾または深めの笠。つまり、これって仮面舞踏会マスカレードなんです。
 別名、亡者踊り。黒い頭巾には、お盆で帰って来た死者を表すという説もあるようですが、正確な起源は不明です。

 優美な指先。小さい頃から、よほど練習を重ねているのでしょう。本番では、かがり火と生演奏のお囃子という伝統を守って踊るそうです。白い手が闇の中から見え隠れするさまは、さぞかし艶めかしいでしょう。
 
 盆踊りは、日本に娯楽の少なかった時代の、若者たちの出会いの場ですよね。独自のおしゃれ感やセクシーさを追求していったことは、私にも想像できます。絹の着物を禁止されたら、パッチワークで古着リメイク風にしたり。カッコいいから受け継がれ、伝統になっていくのでしょう。
 叔父の支援する番楽などのように、後継者不足の郷土芸能が、日本にはたくさんあります。100年後には、ほとんど消えてしまうという予測もあるのです。何しろ、若者がどんどん居なくなる。
 それを思えば、伝統への情熱が生きている西馬音内盆踊りは、稀有な存在かもしれません。

 死の匂いと、恋という生の匂いと。そのどちらも、共にあるものなのでしょうか。
 祭りは政、祀り。聖と俗の境を軽やかに飛び越えて、すべては流れていきます。


2017.5.28西馬内盆踊り2

2017.5.28大太鼓1
2017.5.28土崎曳山車1

 パレードには、北秋田市・綴子の日本一の大太鼓や、世界遺産になった秋田土崎の曳山、他に三吉神社の梵天(纏のような依代)、鹿角の花輪囃子、竿灯も登場しました。私は、竿灯以外はすべて初めて。
 山車の上でグラサンでキメていたウサギさんは、秋田美人以上に大人気でした。


     2017.5.28角館山車兎

 この喜びも興奮のエネルギーも含めて、皆みんな、捧げましょう。
 ミサイルが飛んできたり、山のクマが降りて来て暴れませんように。
 どうかこの地に平安を、幸いを。

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死の傍らを生きている―――その1

2017.4.27福島1 (640x480) (448x336)
 
 吾妻山の吾妻小富士の山肌にウサギの雪形が現れ、田植えの季節も近いことを教えてくれる。そんな春の日に、新幹線を途中下車して大学時代の友人を訪ねました。
 手には小さな花束。お悔やみを云うための旅です。

 ヒトが何のために生まれて生きて、逝ってしまうのか。その答えは、何処からやってくるのでしょう。
 誰が言えるでしょうか。内なる自己以外の。


2017.4.27山形2 (1) (640x480) (448x336)

 幼いまま逝ってしまう子供は、神様に特別の祝福を貰った子。純粋で清らかな魂ほど、高き所へたどり着ける。けれど、そのような信仰を持たない方へ、どんな言葉をかけましょう。我が子を亡くす以上の悲しみは世に無いものと、昔からいわれているというのに。
 そして何より、子供も夫も無く、両親も元気な私の言葉なんか、届くでしょうか。

 思い出すのは、ずっと同居していた祖母の事。
 祖母は6人の子供を産んだけれど、小さいうちに2人失くしました。その2人目の子は、よちよち歩きの可愛い盛り。忘れがたくて、次に生まれた子に同じ名前付けたと、繰り返し繰り返し聞かされたものです。
 その子、つまり私の叔父が40代で早世したとき、祖母は「子供のお葬式には、もう二度と出ない」と言いました。夫の死なら、ロマンティックに語れるとしても、子供では無理。そういうことだよね。
――― もう二度と―――
 読経が終り葬列が過ぎ去るまで、お寺の門の陰で立ち尽くしていた祖母の瞳の色。今も尚、忘れようとしても忘れられない光景です。

 訪ねた友人の家には、仏壇がありません。祭壇には少女の遺影と朽ちかけた花、遺骨もそのままでした。

 友人は、私と同じ大学、同じ哲学専攻でした。
 西洋哲学では、言葉を数学のように使います。観測、推論、証明etc. それだけで、インド哲学より深い真理を示すことは困難かもしれません。でも、これらの手法は、物事をきちんと考えるための、基礎体力を作ってくれます。結果として、現象学や物理学の世界観は、インド的、瞑想的世界にどんどん近づいてきました。インド哲学と西洋哲学。例えるなら、ハタ・ヨーガは最高に素晴らしいけれど、筋トレも大切って感じでしょうか。
 答えを最初から用意して「信じろ」という「宗教的態度」って、解けない問題のカンニングみたいで、私の趣味じゃない。そのようにして、真理をひたすらに求める態度は、禅、あるいはギャーナ・ヨガに近くて、それも宗教の一形態なのだと、今の私は知っています。
 だから、大学時代の私は、徹底的に無神論でした。友人も、そういう意味では私とおんなじはずだけど。

――― あの子はなんで死んじゃったの?
 神も仏も無いよ!
 成仏なんてさせないよ!

 哀しい言葉。哀しいのは、その子ではなくてあなた自身だって、分かっているよね。
 
 今、私は信じるのではなく、知っているんだよ。
 本当の命、魂は不滅だと。肉体は、形あるものは失われてしまうけれど。
 逝ってしまったあの子は、喜びと光の中にいるよ。
 私が、知っているって、それを信じてよ。

 それだけを、言葉を替え場所を替え、何度も何度も語りかけました。
 言えなかったこと、言わなかった言葉が、私の手の中にいっぱいいっぱい残されました。

 あの子が何のために生まれて来たのか、あなたが何のために生まれて来たのか、教えてあげない。
 多少は分かっていたとしても、言わない。
 愛? 喜び? 成功? そんなお手軽な言葉で誘うのは、趣味じゃない。
 それは、私の嫌いなカンニング。少し意地悪して、ごめんなさい。

 Who am I ? まず、自分自身をもっと知らなくちゃ。
 あの子が何のために生まれて来たかを知りたかったら、あなた自身が何のために生まれ、生きているのか知らなくちゃ。自分が誰なのか。それがイチバンの問題です。
 だから、人生という宿題のヒントが欲しかったら、話に来てください。私の処へ。
 いつでも、いつでも、待っているから。

 言えない言葉の向こうで、山桜が細い枝を天に伸ばし、そっと震えていました。

 今日も世界のどこかで、子供を失くした母が涙を流していることでしょう。
 テレビの動物番組で、初産の仔を失くした母虎が、泣きながら我が仔を食べるシーンを観たことがあります。「これは、私の弔いだ」とカメラを睨みつけました。我が仔の血肉が他の誰かのものになるなんて、耐えがたいと。

 今は私も、あなたの悲しみを悲しみ、あなたの涙を流しましょう。

 生きとし生けるものを死すべき定めに作ったのは、ワタシだよ。
 うん、知ってる。
 そして、それでも幸いは、いつも我らの内にあって、見付けられるのを待っているって。

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続:歴史をさかのぼって――精神のDNA

 分かっていることを追いかけていくと、分からない部分の存在がありありと見えてきます。宇宙の真の姿を探ろうとした天文学者が、暗黒物質の問題にぶつかるように。
 見えてこないものが、私を引き付けて止まないのです。

 
2017.4.4国分寺公園木蓮

 ギャーナ・ヨガ、知恵の道は「肉体が自分ではない」というアイデンティティーがモットーです。それでは、肉体のご先祖様なんて、今生だけの幻。どうでもいいものでしょうか。
 否、私たちが両親から、そして歴史書から多くを学んで育ってきたことは事実です。精神進化のDNAってありそう! 
 ちっぽけなこの星、この国、この両親を選んで生まれた意味を、私は知りたいのです。

 しかし、分からない。何が分からないかって、名字で辿れるのは、男子男系のみ。ぶっちゃけ、誰のルーツも源平藤原等々の大和王朝起源に辿り着くとしたら、1%の真実と99%のウソって感じかなあ……。
 でも、他の歴史、すなわち女系の歴史、失われた民の歴史って、どこにあるのでしょう。

 2015年、群馬で鎧を着た人骨が発掘されて、注目を集めました。この人物は、この地の王だったようです。側で妻子の骨も見つかっていて、そのDNAから、王は目が細くて背が高い弥生系、妻は目が大きくて小柄な縄文系だったと分かっています。縄文人が弥生人へ、敗者が勝者へ嫁ぐ。そのような婚姻は、一般的だったことでしょう。
 
 実は、女系優先のご先祖探しの分野があります。DNAのゲノム解析です。ミトコンドリアDNAが母親からしか伝わらない遺伝子だから、女系のご先祖の研究が、先に始まったのです。
 16万年くらい前に、アフリカにいた、人類共通の祖先に近いとされているミトコンドリア・イブ。7~10万年前に、数十~数百人の一団となってアフリカを出たご先祖様たち。
 縄文人は、アボリジニやタミル人に近い程度に、古い血統を伝える民であったという新説も聞きました。この場合の古いという意味は、コーカソイドとモンゴロイドが分かれる以前の特徴を多く残している、ということです。現代の日本人は、弥生人と縄文人の混血で、DNAの80%は弥生系らしいけれど、私の場合は?
 
 衝撃的だったのは、ホモ・サピエンスに絶滅させられたネアンデルタール人が、ホモ・サピエンスと交雑していたというニュースです。どちらも、ヒト=ホモ族ですから、ネアンデルタールとサピエンスと呼びましょうか。

 科学的な解説は、そちらの専門家に任せるとして、私は霊的進化に的を絞って、仮説を展開したいと思います。
 つまり、神話と科学を結びつけて解釈しちゃうっていうことで。


2017.4.4.国分寺公園つつじ

 ネアンデルタールとサピエンスが混血していると、何が問題なのでしょう。それは、弥生人と縄文人の混血と、どこが違うのでしょう。
 まず、どうして彼らは滅びたのでしょう。
 
 歴史書のウソ。私たちは、正しい方、優れた方が生き残って文明を発展させてきたというイメージを持っていると思います。しかし、歴史書は勝者によって書かれるもの。ナチスより国連! それは良いとしても、戦争で分かるのは、モラルの上下ではなくて戦闘能力の上下のみ。当たり前か…。私たち、正しい文明の下で幸福に生きているって信じたいけれど。
 永い永い歴史の中では、文化とモラルが高い民族の方が敗れて、好戦的な民族がその文化を取り込むという方が一般的でした。マケドニアがエジプトとギリシャの文明を取り込み、それがローマへと受け継がれていったように。秦の始皇帝も、モンゴル帝国も、軍事国家としてスタートしました。日本の武士政権もまた、軍事政権でした。

 失われた民であるネアンデルタールが、劣った種族だったと誰が言えるでしょう。彼らは、サピエンスよりもたくましい肉体を持ち、脳の容量も同等以上。分かっているのは、彼らが道具の進化に興味を持たず、物質文明を築かなかったということだけです。少なくとも、多数の動物を絶滅させながら世界へ広がったサピエンスよりも、平和的な種族だったことは確かです。

 また、ネアンデルタールは、喉の構造上、言葉を持たなかったと推定されています。
 当たり前だけど、コトバって何でしょう。コトバとは、音声を特定のモノと結びつけている記号です。そこには、或るモノを別のモノと区別し、抽象的に実在させるという働きがあります。共通のコトバ、仲間 、法律、社会、国家が実在するという共通幻想。それこそが、我々サピエンスの社会を成立させている、とも言えるのです。

 抽象的実在? 共通幻想? すなわちコトバこそがマーヤー。便利だけれど、私たちを深く深く縛っている鎖です。神のみが実在し、すべてはひとつであるという宇宙観とは、元々真逆のモノ。
 このマーヤーの、最たるものが名前です。真実の私=アートマン=ブラフマン、無限の神性に、本来名前などありません。ラマナ・マハルシが、ほとんど署名をしなかったことは有名です。
 裸のサドゥでない私達には、時間・要件・署名が無いと困るけど。印鑑も!?

 それでは、ネアンデルタールは、高い知性をコトバ以外の何に使っていたのでしょうか。それが、最大の疑問、そして仮説です。
 私は、彼らはテレパシーを使ってコミュニケーションを行っていたのではないかと思います。ウサギ君は、イメージを直接ぶつけて私と会話?してました。ヒトにできないはずはありません。動物とおしゃべりしていたことで有名なラマナも、賛成してくれそうです。
 つまり、ネアンデルタールは、霊的に進化した種族だったと私は推測します。もしかしたら、神の像を刻んだ古代人よりも。

 例えば、同じように道具を発達させなかったオーストラリアのアボリジニが、テレパシーを使う霊的民族であることは、知る人ぞ知る事実です。宗教の先進国インドは、再び独立を勝ち取りましたが、アボリジニやネイティブ・アメリカンの文化は、ほとんど失われてしまいました。霊的文化、テレパシーや予知能力等って、戦闘ではたいして役に立たないものです。(種類が違う?)欧米の超能力の軍事利用の研究も、現在は頓挫しているらしいですね。

 それではネアンデルタールの肉体能力は、戦闘や狩りで優位ではなかったのでしょうか。
 現在、ゾウ、ゴリラ、ホッキョクグマなどの大型の獣のほとんどは、絶滅危惧種です。実際問題として、小柄で集団戦法が得意な種族の方が、生存競争という点では強いのでしょう。ティラノザウルスなどの獣脚類の恐竜が、小鳥となって新しい時代を生き延びたように。

 結論として、敗者であるネアンデルタールが、霊的進化したすぐれた種族だったという仮説は、それほど的はずれではなさそう。テレパシーでは嘘や駆け引きがほとんどできないし(多分)、物欲も少ないとしたら、その知性・精神は、修行者のように純粋ではありませんか。

 ネアンデルタールの血統は、私たちに何をもたらしているのでしょう。もしかしたらそれは、半神の伝説と関わりがあるのかもしれません。
 巨人伝説。精霊の伝説。霊的メッセージを残して去って行った失われた民の伝説。

 異人種との交雑1代目、ハイブリッドが、両方の良いとこ取りで優秀になるのは遺伝学的事実です。ネアンデルタールとサピエンスのハイブリットが、神のごとく優秀だったという可能性はあり得ることです。
 サピエンスの言語能力と闘争心に加え、ネアンデルタールのテレパシー等超能力と、オリンピック選手を凌駕する身体能力を備えたヒトがいたら? 古代人から見て、彼はまさに神の血を引く超人に見えたかもしれません。ギリシャ神話、ギルガメシュ伝説等など。そのような少数派の遺伝的性質は、世代を重ねるとほとんど失われるけれど、DNAには痕跡が残されます。
 ひとつの証拠として、優れた超能力者を多く輩出する地域や民族があるらしいことが、知られています。ラスプーチンやブラヴァツキー夫人を生んだロシア、シャーマンやヒーラーなどの多い沖縄、青森等々。それは多分きっと、古い古い血統、霊的DNAです。

 世界各地に残る神話が、歴史の真実の断片を切れ切れに伝えているかもしれない。その血が、私にも流れているかもしれない。
 そう考えると、すごくワクワクしませんか。
 DNAは、生物学上のアイデンティティー。肉体がマーヤーだとしても、この形を精神の器として選んだ意味は、きっとあるに違いないから。

2017.4.7国分寺陸橋の富士

 ユーラシア大陸の東の端っこにある島々は、多分、ヒトが辿り着く最果ての地のひとつ。
 タミル起源? ロシア起源? 中国南部? 移民、落人、罪人…それらを受け入れ育んできたのが、この国の歴史なのかもしれないと、私は思うのです。そこに古い古い血統が残されているとしても、不思議ではありません。

 鏡の中の顔は何系? ときには、遠い遠い先祖の生き方に思いはせるのも悪くないかな。

 

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プロフィール

Who‐kuちゃん

Author:Who‐kuちゃん
生きるのが下手で、得意なのが瞑想だけっていうのは自慢…かどうか??自己流の瞑想がインドの聖者ラマナ・マハルシに似過ぎているので、勝手に師、グルと思ってます。
哲学、宗教、音楽、自然etc.難しい話がしたくてたまらない方、遊びに来て下さい。

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